樺太(サハリン)は第二の沖縄 稚内に行って知りました

   旅行の様子をYouTubeにアップしています  https://youtu.be/k0MYpe5CPzE

2023.7.24(Mon)~7.28(Fri)、稚内・利尻・礼文を旅行しました。そして、思いがけず、戦争末期に樺太で起こったことを知りました。

樺太の面積は北海道より少し小さいが、ほぼ同じと考えてよいでしょう。南北は950㎞もあります。

樺太には、1600年頃から日本人は足を運んでいたようです。1800年代前半に間宮林蔵が測量を行い、樺太が島であることが明らかになり、ユーラシア大陸と樺太との幅約7㎞の海峡は間宮海峡と呼ばれています。

樺太には、アイヌ、ニヴフ、ウィルタなどの少数民族が暮らしていましたが、江戸時代に日本人も多数移り住むようになり、開拓を行っていきます。

ところが、ロシアがいろいろと樺太にちょっかいを出すようになっていきます。面倒くさくなったせいかどうかよく分かりませんが、1855年の
日ロ和親条約で、千島列島は択捉島以南は日本、以北はロシア、樺太は混在地域となります。そして、さらに区分をはっきりさせようと思ったかどうか分かりませんが、1875年(明治8年)に千島樺太交換条約が締結されます。樺太はロシア、カムチャッカ半島までの千島列島は日本、となりました。平和的な話し合いで国境が定められたという意味で、国際法上は、この条約が有効で、千島列島の今の現状は、ロシアの不法占拠、となるようです。自民党の北方四島というのは、この条約の20年前の条約を根拠としていることになります。国際法上では、話にならないみたいです。

ここから話がガラッと変わっていきます。1904年(明治37年)~1905年(明治38年)に満州や遼東半島の権益をめぐり、日露戦争が勃発します。その結果、
ポーツマス条約で、日本は樺太の北緯50度以南、南樺太を手に入れます。それ以降、樺太に住む日本人は増え続け、太平洋戦争のときには40万人を超えていたそうです。豊富な石炭資源や漁業資源は日本そのものを支えていました。戦争中も戦禍に巻き込まれることなく、比較的穏やかで平穏な生活が送られていたようです。

しかし、日本降伏が間近に迫った1945年(昭和20年)8月8日、ソ連が
日ソ中立条約を一方的に破棄し、翌9日、満州や樺太を攻めてきます。ソ連は150万以上の兵力を動員したそうです。ソ連の攻撃は容赦ないものでした。無差別に市街地が攻撃され、民間人が犠牲になりました。吉永小百合主演映画「北の桜守」には、歩いて逃げる日本人の長い列にソ連機が機銃掃射し、たくさんの命が奪われるシーンがあります。

『九人の乙女』 ~みなさん・これが最後です・さようなら・さようなら~

8月20日には南樺太南部西岸の真岡(まおか)が攻められます。九人の若い女性が「私達がいなくなったら連絡がとれなくなってしまう。」と郵便局で電話交換の仕事を続けます。そして、交換室に弾丸が飛び込むようになり、郵便局長と次のような会話が交わされます。

午前6時30分頃、渡辺照さんが、「今、皆で自決します。」と知らせてきたので「死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ。」と繰り返し説いたが及ばなかった。ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと「高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら。」という渡辺さんの声が聞き取れた。自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった。


『自決した看護師』

南樺太中部西岸に恵須取(えすとる)に8月6日ソ連軍が攻めてきます。恵須取(えすとる)は炭鉱で栄えた町です。太平炭鉱病院で働いていた若い看護師23人は歩いて逃げましたが、やがて絶望の淵に追いやられ、大きなニレの木が立つ丘で、睡眠薬を飲んだり、手首を切ったりして、死を待ちます。結局6人の看護師が命を落とします。他の17人は避難してきた人たちに発見され、助けられました。

『昭和の大横綱 大鵬』

昭和の大横綱大鵬は19940年(昭和15年)に、南樺太中央北部の敷香(しすか)で、ウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれます。ソ連侵攻後、父親はソ連軍に逮捕され、母親と共に北海道に避難します。救助船「小笠原丸」に乗って小樽を目指します。しかし、母親の船酔いがひどく、稚内で下船後、「小笠原丸」には乗らず4,稚内にとどまります。樺太からの救助船は「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」の3隻ありましたが、小樽直前の留萌沖でソ連の潜水艦の攻撃を受け、「小笠原丸」と「泰東丸」は沈没、「第二新興丸」は大破してしまいます。今でも、留萌沖の海底には数千の遺体が眠っているそうです。映画「北の桜守」でも沈没で海に投げ出され、長男と別れ別れになってしまうシーンがあります。

母親の船酔いがなかったら、大鵬は「小笠原丸」とともに海に投げ出されていたかもしれません。大鵬は、「ここ稚内で降りたことで今の自分がある。横綱になれたのも稚内が原点。」と言い残しています。

ソ連軍の攻撃は9月3日まで行われました。満州や南樺太などからシベリアに抑留された日本人は
57万5千人以上に上ったそうです。過酷な強制労働、生活の中、5万5千人以上の日本人が命を落としました。

スターリンは、北海道の北半分をソ連の領土にしようと企んでいたようです。もし、そんなことになっていたら・・・。ウクライナ戦争を見ると、あまりに恐ろしくて、身体がブルブルと震えてきます・・・。

日本兵も朝鮮や中国、東南アジアでひどいことをしてきました。しかし、民間の人たちにも人生を終わらせるほどの責任を負わせなければいけなかったのでしょうか。

1968年(昭和43年)9月、昭和天皇・皇后が稚内を訪れます。「九人の乙女」の話を聞き、句を詠みました。昭和天皇『樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる』、皇后『樺太につゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる』。この句の中に、戦争の最高責任者として、どんな思いがあったのでしょうか・・・。

有事、軍事作戦、核の使用、敵基地攻撃、安保法制・・・、恐ろしい言葉が実感なく、頭の上を空しく通り過ぎている、と自分自身感じることがあります。実際に何があったのか、もっともっと知っていかなくてはならないと思いました。


南樺太



氷雪の門



九人の乙女の碑


小笠原丸


昭和天皇行幸啓記念碑(稚内公園)